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間島秀徳氏×小島暁夫「現代日本画と材料について」

2023年6月29日(木)武蔵野美術大学 公開大学院間島ゼミ

(以下の文章は、トークイベント中盤~質疑応答までの一部分になります。)


間島:近年の卒業生の作品だけでも素材や技法、表現内容も多様になっています。既存の日本画のイメージにこだわらずにどんどん自分の解釈で描こうとしている。特に卒業制作以降になってくると、それぞれのスタイルが色々出てきて工夫をして取り組んでいる人は凄く多いです。そういう意味では美大の日本画系では自由度が高いといえるのではないでしょうか。


小島:どうなのでしょう。自分の中では、日本画という意識は自由だ自由だと広めていくものではないです。どちらかというと、ある程度狭めて考える方なので。今の学生さんはどう考えているだろうか。日本画って何ですかって言われた時にどう答えるかですよね。


間島:今週の月曜日に三菱一号館美術館の野口玲一さんに来ていただいて、現代日本画の流れについての話から繋がっていて、学生たちも日本画について考えざるを得ない状況ではあります。そこにいた人は考えたんじゃないかなと思います。

ここに1964年の東京オリンピックの頃の萠春という雑誌があるのですが、これに日本画の危機について書いてあるんですよ。60年程前ですが。


小島:戦後のその頃は日本画滅亡論というのが言われて、結局逆説的に日本画を広める事になりました。明治期も似たような事が言われ…。日本画という言葉が出来たというのが明治15年なんですよ。アーネスト・フェノロサというお雇い外国人が龍池会で美術真説という講演会をして、その中でのJapanese paintingとかJapanese style paintingが直訳された言葉です。で、今の人は西洋絵画と区別する為に日本画という言葉が出来たと殆どの人が思っています。私はそうではなくて…。明治に入るとイギリス資本、今でいうグローバリズムの考え方が入ってきて、廃仏毀釈と言って日本のそれまでの文化を古臭いだとか、自分たちで文化を捨てるような動きがあった。それに対して、日本文化をもっと守った方が良いのではという保守的な動きが日本画を残す事になるんですよ。どちらかと言うと、ただ区別されたのではなくて、急激な西洋化の中で反発して残ってきたのが日本画。だから今も続いているんですよ。イギリス資本がアメリカ資本に変わりましたけど、それに反発していく姿勢が私は日本画だと思っています。例えば同じ15年に「書は美術ならず論争」というのがあります。この論争は、油画の小山正太郎が『東洋学術雑誌』という雑誌で、西洋化して鉛筆を入れましょうと教育の中で鉛筆を勧めるんですよ。それに対して岡倉天心が毛筆の芸術性で反論する。急激な西洋化に対して抗った訳です。そういうのがちょこちょこあるんです。天心は明治22年「國華」という雑誌を作ります。5,000円くらいする高額な雑誌の中で日本の作家を紹介していく活動をするんですよね。…結局、その頃と全然変わってないと思う。気付かないうちに西洋化されている。例えば作品を見て、半分以上の人は膠を使って西洋画を描いている感覚だと思います。結局受験を見ても西洋化されていますよね。西洋素描で西洋着彩で入学して、技術自体は西洋技法なので、材料だけが違う事になる。そうすると日本の文化も何もないですよね。だけどタイトルでは日本画って名称が付いている訳ですよ。皆さんそこで、矛盾であるとかジレンマ、何かおかしいという違和感…あると思います。明治期にもそういう事があったと思います。西洋資本に対して、日本文化を守る。別に描き方は新しくても全然問題なく、日本画の文化的なものを見直して何か作品を作る事で、西洋とは違った文化というものを維持出来るのではないかと考えている訳です。弊社で出している材料、アートグルーとかアートレジン、中性サイズ剤も今の材料というのを考えていますが、意識としては見直しているんですよ。開発者である上田邦介と昔の文献を見直して、こういう考え方があったのではないか、今の材料はこうだからこういう風に変えた方がいいのではないか…意識があったと思います。だから私は膠使っているから何でも良いよとか、アートグルー使っているから色んなものが描けるとかではなくて、どちらかというと、反グローバリズムというか…グローバリズムは文化を破壊する訳ですよ。もう少し従来の日本文化を意識するべきなのであって、ナショナリズムに近い考え方をする必要があるのではないかと思うんですよ。日本画という言葉もそうですし、自分たちがやっている技法も、材料もそうですけど、全てが西洋化していってしまうと思います。…材料は二の次だと思っています。結局絵を描くうえで大事なのは、その人の考え方や精神性であって、材料じゃない。現代日本画の材料も新しいですよね、モノはどんどん変わっていくんですよ。物質である以上しょうがないので、もう少し普遍的な芸術論だとかを改めて考える事で、今の画材を選択する事が出来るのかなと、個人的には思っています。


間島:現在の話とも重なるので少し(萠春)読んでみますね。60年前の批評の記事を読みますね。「周知の通り最近の日本画は一見洋画と見まごうような外見を呈するようになってきた。モチーフも表現様式も殆ど洋画と隔たりのないものになりつつある。そのために思考のうえでも、かくなる上は、日本画、洋画の区別などは、もはや不要ではないかという声までもち上がっている。日本画と洋画の相違は、たんに材料の違いでしかない、とは度々耳にする言葉である。しかし、材料と結びつかない表現はないのであって、材料が異なるという事は、それだけで既に決定的な異質性を意味する。すなわち、材料の特質は、そのまま日本画の、あるいは洋画の特質であって、技法も、伝統も、風土も全てはそれに繋がっているのだから、材料だけの問題といって済ましていられるものではない。」

この頃は、まさに洋画の影響を受けて、それ以前と比べると厚塗りの表現がどんどん増えてきている。その様な状況を危惧するという記事ですから、本当のものをどの様に見つけていくかを考えようではないかという事言っているのです。この時は安田靫彦の事を絶賛しているのですが、厚塗りに対しての危機感をもっと作者が持つべきであるという事を訴えているのですね。


小島:それ以前にもフェノロサが日本画の定義をしました。5項目、日本画とはどういうものかを挙げましたが、そのいずれもが様式なんですよ。例えば、こうろく鉤勒(線)があるとか簡素化しているとか…全部見た目ですよ。でも私は、見た目の厚塗りか薄塗りかという事でもなくて、概念芸術だと思っています。(日本画として)抽象画を描く人も多いですけど、概念芸術と言われるような初期現代美術とも日本画は親和性があるのかなと思って。初期の現代美術は、簡単に言うと批評家が凄い影響力があった。特にクレメント・グリーンバーグとか…。その頃は現代美術の考え方や批評が見やすかったと思いますが、今は実業家がまわしている。ピノーとかサーチとかガゴシアンとか…そのあたりのメガコレクター達が現代美術をまわしているので、今の批評はこじつけ的な印象が多くなってはいますが、概念を重視するのは変わってないので、そういうところでは日本画と親和性があるのではないかと思う。…どうかわかりませんが。


間島:…どういう話をすれば良いでしょうか。少し自分の話をすると私も日本画の出身で、そこで得たインスピレーションや経験で作品を作ったり実験をしてきたりの最中ではあるのですが、やはりそこでは、伝統的な素材だけでは賄えない、自分のコンセプトに見合った素材であったりとか、選びながらやっていくという意味では、先程の小島さんの話に近いようなところもあると思うのですが。例えば膠を否定している訳では全然なくて、自分自身の制作の内容が変わってきた事で、違う材料が選び取られている。そこで最も重要な材料を選んでいるという事なので、まさに考え方だと思うのですが。現在の日本画家の中でも、勘違いしている人は、何か自分が特別な素材を扱っている様なものの言い方する人が結構多くて、そこでは批評性とか考え方が、すっ飛ばされてる…。そういう意味ではこれからの制作者は、どの様になっていけば良いかというと、大学の日本画学科で学ぶ事で変わっていって良いと思っているのですよ。好きなようにやって良いというよりも、結構アカデミックにしっかり学ぶ中で、それぞれの考えが新たに確立されれば良いのですから。


小島:良いじゃないですか。…西洋化っていうのは描き方というより見方ですよね。例えば感覚的に見てこれ良い悪いとか格好良いとか上手く描けているとかではなくて、見方を増やすという事が美術教育の中にあって良いのかなと思います。具象見ても抽象見ても同じですけど、一方行の見方しか出来ていないと思うんですよ。例えば抽象画見て、たぶん多くの人がぱっと見で色々判断するというか評価を下す訳ですけど、私は必ずタイトルを見ます。抽象作品は伝わりにくいんですよ。だけどその人の言いたい事が、必ずタイトルに繋がって出てくる。「あぁ、こういう見せ方しているんだ」と面白味を感じたり、「このタイトルだったら違う見せ方の方が伝わる」という見方で評価が分かれたりとか。そういう考えもあっていいのかなと思うんですよ。ぱっと見で上手いとか格好いいとかだけだと折角考えがあって抽象にする訳なので、伝わらないのは寂しいですよね。


(この後、質疑応答)

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